無理はいくらでもできてしまう

発病する三年くらい前から「あれ?」と思うような身体の異変は少しずつ感じてはいました。会社で受ける健康診断の結果も「要検査」とはなっていたのはわかっていました。ですが、年齢も重ねてくれば少しくらい身体の異常も出てくるだろうし、というくらいにしか考えていませんでした。異変の中でも一番長くおかしいなという状態が続いたのは「尿」でした。夜中に三回も四回もトイレに行きたくなるんです。特に日中、水分をたくさん採ったとかそういうこともないのに。一度くらいは起きることは前からありましたが、三回も四回も起きると、睡眠もしっかりとれない状況で、トイレの中で寝てしまっていたこともあったりしました。何らかの異変は感じながらもそのまま放置。なんだろうなぁ、というくらいにしか考えてなかったんです。仕事が忙しくなった新年度。立ち仕事をしていたので、いつも足はむくみますし、足の疲れはいつものことでした。調理師でしたので、重い鍋などを持つこともあり、腱鞘炎になる人も多く、私もなったことはありましたし、関節が痛んだりするようなことがあっても、仕事の疲れだと思い込んでいました。忙しくなりストレスも疲れもたまり、風邪をひいたりすることが多くなっても、疲れのせいだと思っていました。ですが、どうにも疲れだけでは片づけられないほどの手足の関節の痛み、熱がずっと下がらない、そんな状況にようやく本当におかしいと思うようになったんです。膠原病と診断されました。今は調理師として立ち仕事をすることができなくなっています。もっと早く病院に行っていればここまで悪くならかったかもしれない、と時々思います。

初めての病気による入院

今までで経験した一番大きな病気は潰瘍性大腸炎でした。私が病気にかかったことが分かったのは高校一年生の終わりでした。腹痛、下痢、貧血の症状はおよそ半年以上前から出ていたのですが、それまで消化器系の病気にかかったことがなかったこともあり、ずっと放置してしまっていました。しかし春休み頃になると、症状はどれもことごとく悪化し下血の症状も出て、日常生活で息が切れ、貧血でふらつき、めまいもひどくなり、腹痛で夜も寝られなくなってやっと近くの病院を受診しました。そこの病院を受診してすぐに市民病院への紹介状を書かれ、そのまま血液検査をすることになりました。しかし大腸からの出血による貧血のせいでまとも血をとることもできず、何度も針を刺しなおした採血の結果はヘモグロビン、赤血球量ともに健常者の半分、逆に炎症反応は30を超えていました。内視鏡で検査してみたところ、すでに重症化しており自宅療養の域を越えていました。結局その夜そのまま入院という形になりました。そして体のいろいろな部位を検査してみたところ、左肺も気胸でつぶれていました。大腸炎の痛みのせいで肺の痛みには気づいていませんでした。
入院した後は治療のために絶食、首に点滴を刺してそこからの栄養補給および鉄分補給となりました。入院一か月目は自分で歩くこともほとんどできず、ペットボトルを持つことすら危うくなっていました。
二か月目からは入院生活にも慣れ、治療方針も決まり、それなりに快適に過ごしていました。
当時は本当につらくてどうしようもなかったのですが、今では完治こそしていないものの症状は落ち着いているので、入院生活も良い経験だったと思っています。
今いえることは、体に何か異常があれば自分で判断せずにすぐに近くの病院へ受診することが何よりも大切なことです。

帝王切開の手術ミスにより生死をさまよう

数年前、私は双子を妊娠し、2か月にわたる管理入院と24時間点滴により、早産を防いでいました。ところが、出産予定日が来ても陣痛が起きず、一転陣痛促進のためにさまざまな処置を毎日行われたのち、子宮が伸びきって陣痛が起きないと判断され、緊急帝王切開が行われて予定日の二日後に双子を出産しました。
双子が未熟児で2週間保育器に入ったのち、一緒に退院したのですが、すぐに私は高熱が出て、出産により身体が弱って風邪をひいたのだと思っていました。ところが何日たっても高熱がひかず、寒気により震えが止まらなくなり、これはおかしいと入院した病院に夜中に行ったところ、白血球の数が増大しており、手術で全部摘出したはずの胎盤が子宮に残っていてそれが化膿して炎症を起こしているとのことで、そのまま緊急手術になりました。麻酔を打つと大出血を起こす恐れがあるとして、麻酔なしでの掻把手術。想像を絶する痛みでした。痛みにより失神したのは初めての経験でした。
その後も一週間高熱が続き、生死の境をさまよいました。もし、自分でおかしいと思って病院に来ていなければ、急な大出血が起こり、救急車で運ばれても助からなかったかもと言われました。あまりに私の回復が遅いので双子の一人が病院に運び込まれ、子どもを育てなくてはという必死の気持ちからやっと熱が下がり、回復に向かいました。
その後も産後の肥立ちが悪く、一年以上体調が回復せず、双子を育てながらいつ寝ているのか起きているのか、自分は何をしているのかという朦朧とした一年を過ごしました。
今思えば、病院を訴えたり、治療費の支払いを拒否したりしたほうが良かったのではと思いますが、当時はそんなことに思いが及べないほど心身ともに弱っておりました。
自分も子どもたちも無事で、20年近く経った今、みんな健康に暮らしていることを幸せに思います。

盲腸から腹膜炎併発して、あの世に行く所でした

今でも覚えているのは、ある日突然何となく腹痛。痛みの感じは「生理通」に似て、何やら陰険な痛みだったのですが。まあ我慢できないほどではないし、仕事も休めなかったので鎮痛剤と、以前貰った座薬でごまかして2日間放置。3日目に「こりゃ駄目だ」で仕事に行く途中かかりつけの医院に飛び込んだところ、エコーを撮られて「盲腸ですよ、紹介状書きますからすぐに病院に行って切ってください」「仕事があるので、散らすとか」「無理です。」断言されてしまったので仕方なく、それでも一旦帰宅して入院荷物作って(独り暮らしはこういう時が辛い)。困ったのはタオルとか病衣(寝巻き、パジャマの類)どうするか、感染症予防のためレンタル専門なら必要ないし、荷物少なくしたいし。まあタオルだけは入れて置こう、とかやってるうちに痛みがひどくなりまして、それでも誰が送ってくれるわけでもなかったのでタクシー呼んで病院まで行きました。昼休憩中だったのですが、紹介状が効を奏して即検査。結果「完全に腫れ上がってます、虫垂が普通なら下にぶら下がってるんですが、跳ね上がってしまってます。で、小腸とくっついてしまっているようです、開けてみないと解らないけど場合によっては小腸の一部も切り取るかもしれません」、淡々と言われまして「手術承諾書にご家族の署名を」「いません」「・・・・では本人承諾で」。オマケに「入院保証人を立てて欲しいのですが」「すぐには呼べません」「後でもいいですので、印鑑だけでも」。雑用が次々と降りかかってくるのを、当人が処理しなければいけないという、独り者の悲しさ。結果、今の盲腸の手術は短ければ15分だそうですが、2時間近くかかった手術。今でも大きな傷が右の腹部に、ミミズがのたくったような形で残っています。我慢した2日が、運命の分かれ道だったようです。

胃潰瘍が判明するまでに4日もかかりました

私が今まで経験した中で一番大きな病気は胃潰瘍でした。
前日までは特に前兆などを感じることもなかったのですが、ある日の午前3時頃に突然の痛みで目が覚めました。同居している家族はいるのですが、夜中だったために誰にも気づいてもらうことも出来ず、とにかく苦しかったことを覚えています。なんとかベッドから這うようにしてキッチンまで移動し、口の中が気持ち悪かったのでうがいをしたところ、口の中から茶色い液体が出てきました。そのときは気が付かなかったのですが、吐血していたようです。
明け方に偶然トイレに起きた母に発見され、近所の救急病院に連れて行ってもらいました。しかし残念なことに研修医の先生しかおらず、腹部の触診と血液検査のみで便秘だろうという診断で家に帰されました。吐血をしたこと、検査時に脈拍が30を下回っていたことで、看護師さんからは別の病院の受診を勧められました。
日曜日だったためそれ以上どうすることも出来ず、一日我慢をして、月曜日に別の病院に行きました。そこでも問診のみで軽い胃腸炎と判断され、そのまま帰されることになったのです。それから三日間我慢をしましたが痛みは全くひかず、再度月曜日に行った病院に行き、胃カメラの検査をお願いしました。そこでやっと胃潰瘍だったことが判明し、適切な処置を受けることができました。
しかし検査前に会社に事情を話しても休むことを許可してもらえず、全身麻酔で検査をしている最中もずっと携帯電話が鳴り続けていました。結局目が覚めて結果が出たらすぐに出勤しろと言われ、逆らうことが出来ずに出勤したことを覚えています。
結局元の食生活に戻るまで3か月近くかかりましたが、なんとか再発もせずに生活することが出来るようになりました。

出血等が無い大怪我をすることもある・・・

私が今までにした一番大きな怪我は、二段ベッドの上から落ちて頭を打った時のことです。
小学生の時だったのですが、朝起きた時に寝ぼけていたのかいつもならぼーっとしていても普通に下りられていたはしごの場所を何故か寝ぼけていたため間違えてしまったらしく、頭からまっさかさまに落ちてしまいました。2階の子供部屋で寝ていたのですが父と母が音を聞いて慌てて駆けつけてきたのを覚えています。
幸いあからさまな出血などはなかったのですが頭に大きな内出血が出来、頭を打ってしまっているということで脳震盪も怖いしその時大丈夫でもそのあとどうなるかわからないということで、その日は一日入院することになってしまいました。
私自身はパニックにもなっていたしとにかく驚いたし痛かったしで泣いていた覚えしかないのですが、後でその時初めて普段仲の良かった両親が病院に連れて行く(母)・行かないでも大丈夫だから仕事に行く(父)と大喧嘩をしたと聞きました。
結局母の「頭を打っているんだから今後どうなるかわからない」という意見で父が車を出してくれて病院へ行き診てもらったところ、頭を打った場所が本当に大丈夫かギリギリのところで、あと1~2センチずれていたら開頭手術をしなければならないほどの状態だったと聞き父も真っ青になったと聞きました。私自身は幼かったこともあり退院した後頭にガーゼを当てられネットのようなものをかぶせられそれで学校に行くのが恥ずかしかったことの方が覚えているのですが(笑)
それ以来二段ベッドは解体されて一段ずつにされ、学校にもその話がしっかり伝わっていたため修学旅行の時の部屋が二段ベッドでしたが「あなたは下の段ね」と先生に決められてしまっていました(笑)
派手な出血や骨折などの怪我ではないですが、私にとっては人生を左右する大きな怪我(内出血でしたが)でした。

幼い日の痛い思い出…出産した今…

昨年第一子を出産し、今は専業主婦をしているものです。
妊娠中も特に問題なく、6時間の超安産で出産を終えました。
本当に無事出産できてよかった。と誰もが出産を終えたら実感することかと思いますが、私が今までにした一番大きな怪我の話しの後だとその思いもひとしおになると思います。

あれは今から20年前小学2年生の初夏です。
その当時私達の間では「鉄棒の上を綱渡りのように歩く」という遊びが流行っておりました。
これだけで私の怪我の内容がわかってしまいそうですが…

色んな高さの鉄棒が並ぶ公園でいつも遊んでいたのですが、もっぱら人気だったのはその当時の私の腰の高さほどの鉄棒でした。
いつものように学校が終わった夕方、男女合わせて5人ほどで公園で遊んでいました。
私はその日も鉄棒の上を歩いていたのですが、ふとした瞬間足を滑らせてしまい鉄棒を股の間に挟む格好で落ちてしまいました。
小学生の腰の高さだと大人からみたら知れているものなのですが、その当時の私は後一歩のところで足が地面に届かず…股をしたたか鉄の棒にぶつけてしまい足が宙に浮いている状態で止まりました。
あまりの衝撃に痛みは感じず、ただびっくりしただけ。とても冷静に「お母さんに報告しなきゃ。」と思いました。

幸いにも公園から近いところに家があったので友達に帰るねと伝えて帰り、母に報告。その日着ていたスカートは血まみれになっていました。
あまりの血の量に母も驚き、すぐに病院へ。それまで大きな怪我もしたことがなかった私は、テレビで見ていた手術の光景を思い出してひたすら病院に行くのを拒否しましたが母の「薬で治る。」という嘘八百に騙されて整形外科へ行きました。
局部麻酔で3針縫ったのですが、痛いというより怖さで泣き叫んでいたのを覚えています。処置中はずっと母が手を握ってくれていました。
それからの一週間はトイレに行くたびに消毒用ガーゼで清潔にし、もちろんプールも見学。授業中はイスに座布団を敷いてもいいという特別待遇でした。
一週間後の抜糸も痛かったのを覚えています。その当時は溶ける糸ではありませんでしたから…

奇跡的に中央ではなく少し膣口からそれた場所を切ったので笑い話となりましたが、場所が悪かったら…と思うと…
本当に問題なく自然分娩で産むことができてよかったと今、心から思います。

生きてて良かったと思ったあの日の事

1ヶ月ほど前からお腹が痛いような、熱っぽいようなだるさが続いていました。しかし当時飲食店でストアマネージャーをしていたのでなかなか休みも取れず、ちょっとした疲れだと思って栄養ドリンク等でごまかしていました。しかしなかなか体調は良くならず、ある日の朝方、強烈なみぞおちの痛みで目が覚めました。時間を経たずしておへそ周りが痛み出し寝返りも打つのがきつくなりました。これはどうしようもないと悩んだ末に仕事は代わりを立ててもらい朝一番で病院へ行くことにしました。脂汗と吐き気とトイレに行きたいような感じがずっと続き、病院で受付をしてからはうっすらしか覚えていません。よくあそこまで歩いていったなと振り返ると思いますが・・・。微熱があったようでしたがどうでもよかったです。痛みに必死に我慢しながら診察して結果は虫垂炎でした。何やら機械で検査もしていましたがはっきりとは覚えていません。その後、2週間ほど入院して落ち着かなかったので退院後3週間ほどで仕事に戻りました・・・が、仕事に戻って傷がまだ治っていなかったのか化膿してしまったのか再び腹膜炎になりかけて入院しました。その時は会社に穴を開けた責任感の方が辛くって這ってでも仕事に行かねばという気持ちもあり腹痛もどうにか我慢していたのですが、もう少し遅ければ菌がまわって死んでいたとドクターには怒られました。そしてやっと再び退院という頃に以前持病だった喘息を併発し痛いような苦しいようなで、もう二度と家に帰れないのではないかと思いました。結局最初の受診から落ち着くまでに4ヶ月。長い長い代償が付いてしまいましたが、それからは健康であることに感謝し程々に頑張るようにしています。

年相応のファッションは難しい

私は、ワンピースを着ることが多いです。1枚でサラッと着れて楽ですし、コーディネートも考えなくて良いのに、きちんと感が出ます。普段着としてはもちろん、少し改まったような場所でも着ています。

しかし、最近どんなデザインのワンピースを選べば良いやら悩みます。10代の頃から着ていたワンピースは、さすがに若すぎるので処分しましたが、20代後半にかけて購入したワンピースは、思い入れなどもあって、処分できません。でも、着ようと思っても、デザインと年齢がマッチしないのです。

現在、30代も半ばになってきましたが、年齢相応のデザインというものが、分からないのです。あんまり地味だとオバサンくさいですし、かわいいデザインだと若作りをしているようにも見えます。

だから、もう少し年齢を重ねるまでは、新しいワンピースを買うのはやめようかなと思っています。下手に手を出して買ってしまうと、短期間しか着られないようなものを選びかねないので、無駄遣いになる予感がします。

最近は、カットソーとスカートという組み合わせが多くなりました。私と言えば、ワンピースのようなイメージは自分が思っていた以上に定着していたようで、イメージが変わったと言われることが多いです。良い方に変わったと言われるので、それも悪くないかなと思っています。

ワンピースだけではなく、自分の年齢のことも考慮したファッションというのは、結構難しいと感じています。雑誌などを参考に研究していきたいです。

友達の出産を通して思ったこと

地元の友達が出産をしたので、会いに行ってきました。実家には、飛行機を使って帰らなければならないので、会社もお休みをいただき、予定を調整しての帰省でした。

元々は細くて折れそうなくらい弱々しい友達なのですが、妊娠中に20キロも太ったそうで、私が知っている彼女の面影が一切なくてびっくりしました。でも、元が痩せすぎだったので、少しはふっくらした方が良いと思いました。

本人は、太ったことを気にしていました。でも、私は今の方が健康的でかわいいと思いました。女性、痩せていればいるほど良いみたいなところがありますが、決してそうではありません。拒食症みたいにガリガリな人は、女性としての魅力に欠けます。ちょっとふっくらしている方が、絶対にかわいいです。

私の友達は、高校生の頃に母親を亡くしています。だから、育児に関して手伝ってくれる人もいないので、不安しかないそうです。女兄弟もいないので、頼れるのは旦那さんと父親のみ。

私も、近くに住んでいればできる限りのことは協力してあげたいです。でも、また帰らないといけないので、役に立つことができない自分がもどかしかったです。

その点、私は里帰り出産で母親にも色々手伝ってもらうことができたので、恵まれていたんだと実感しました。食事の準備や赤ちゃんの沐浴など、頼りっきりだったので、それを当たり前とは思わずに、ちゃんとお礼を言わなければと思いました。

友達のことは、心配なので、密に連絡を取りつつ、手伝える時は行ってあげたいです。

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